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2005/3 |
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3月に入ると、桜が待ち遠しいですね。
さて、はじめてこの欄をご覧いただきました方は、バックナンバーの2月号からお読みいただくといいかもしれません。
それでは、先月のつづきです。信じられない出逢いのお話。その人とは・・・・。
時は1989年、14年振りに訪れたパリで、以前住んでいたマンションの住人が変わってしまい、会いたかった人に会うことが出来なかった、時の流れは街の様子も変えてしまうんだな、と感じたものでした。 これは私が出版しました、「メタルビーズ・パリ十六区からの旅立ち」の中でも紹介された一部分です。 ところがです、1975年に帰国してから今年で丸30年、驚くべき人物に再会したのです。
実は、先月私がパリを訪れる半年前に、私の長男夫婦(智太郎と潤子)が「巴里展覧会」の会場事前打合せでパリに行った時の話ですが、その長男が超偶然にも信じられない人と逢ったと興奮して話をしてくれました。 といいますのは、「ちょっと時間があるから会場のプラザ・アテネの近くだし、昔住んでた家でも見に行くか」と訪れたマンション。外観だけ見て帰るはずが、入口が開いていたので中庭まで管理人さんの許可をいただいて入ったそうです。フランス語が少し堪能な潤子が管理人さんに交渉したそうです。 その時でした。上階から怖いおばさんが、「なんで住人以外の人がうちのマンションの中庭入っているの!」(フランス語で)と怒りながらエレベーターから下りてきたそうです。長男が、「すいません、私“KURAHASHI”。昔このマンションに住んでいました」と英語で答えると、そのご夫人が「“KURAHASHI”って、あなたは昔住んでいたあの“KURAHASHI”さんの息子さんなの?」とばかりに驚いて抱きついてきたそうです。 そうなんです、彼女こそが昔住んでいた家の大家さんの娘さんだったのす。彼女は偶然その時外出する瞬間で、玄関に下りてきたところだったのでした。10秒ちがっていたら出逢うことはなかった、お互いすれ違って気づくことはなかったといいます。 彼女は、私たち家族がパリから引越してからの消息をズーッと30年間気になっていたそうで、その時目にはうっすら涙が浮んでいたそうです。私たちが日本ではなく、ヨーロッパのどこかに引越したとばかり思っていたそうです。
それからというもの、彼女との文通が始まりました。解読不能なくらいの達筆なフランス語のお手紙を知人を通じて翻訳していただきながら、半年が過ぎました。 「どうしても彼女と会いたい」、「彼女も私と会いたい」、お互いの気持ちが昂ぶりながらの再会を先月果たしたというわけです。感激の再会でした。お互いちょっと「年」を取ってしまいましたが、感覚というものは変わっていないものですね。(娘さんといっても私と3歳しか違わらないのです) そして、昔私たち家族が住んでいた家の中まで入らせていただくことができました。現在は彼女が住んでいらっしゃるとのこと。30年前に住んでいた家の中は、思い出がいっぱい詰まっていて、感激でした。玄関、廊下、応接間、寝室、子供たちの部屋、台所・・・・記憶の引き出しが一気に私の頭の中を駆け巡りました。 「ここで“すき焼きパーティー”したわねー」とか、当時わが家にお越しになったお客さまのお顔が一人一人浮んできました。 1902年に建築されたそのマンションは、彼女の曾祖父さんが装飾デザインしたということもその時初めて知りました。住んでいた時は若かったからでしょうか、そのようなことは興味が無かったので知りませんでした。お恥ずかしい話です。
「パリ」が私を呼んでいるのか。 半年前の偶然中の偶然が、会いたかった人に会うことができたのは不思議でなりません。 まるで磁石と磁石が吸い付かれるように。 「パリ」とは切っても切れない不思議な「縁」「運命」というものを強く感じています。 皆さまも、不思議な「縁」というものを感じたことはありませんか。 私は、このような「縁」は人生の宝物、これからも大切にしていきたいと思っています。
2005年3月 Yoshiko
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